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東京地方裁判所 昭和62年(行ウ)121号 判決 1992年3月23日

原告 植田育男

右訴訟代理人弁護士 安藤朝規

同 上柳敏郎

被告 地方公務員災害補償基金東京都支部長 鈴木俊一

右訴訟代理人弁護士 大山英雄

主文

一  原告の請求を棄却する

二  訴訟費用は原告の負担とする。

事実及び理由

第一請求

被告が昭和六〇年三月二七日付けで原告に対してなした「脳出血」を公務外の災害とする旨の認定を取り消す。

第二事案の概要

一(争いのない事実)

1  原告は、昭和五年八月一八日生れの男子で、昭和二八年六月三〇日に東京都教育委員会から中学校教諭一級普通免許状(理科)、高等学校二級普通免許状(理科)を授与され、同年九月一日に東京都公立学校教員に任命され、昭和二九年六月一五日に中学校教諭一級普通免許状(数学)、高等学校二級普通免許状(数学)を授与された。原告は、東京都公立学校教員任命以降東京都の区立中学校及び都立高等学校の教諭をしてきたが、昭和四一年四月一日からは東京都立志村高等学校(以下「志村高校」という。)の教諭として勤務していた。

2  原告は、昭和五九年二月二五日(土曜日)の放課後、生徒方へ家庭訪問に行く途中、駅の階段で転倒して負傷し、その後同月二九日三楽病院に入院して脳出血(以下、「本件疾病」という。)と診断された。

3  本件疾病発症までに次のような経過があった。

(一)(原告の血圧値の推移)

昭和三七年から昭和五八年までの原告の血圧値の推移は次のとおりであった(収縮期血圧・拡張期血圧を、「一四〇/九〇」のように表示する。前者が収縮期血圧、後者が拡張期血圧である。)。

昭和三七年六月二六日 一四〇/九〇

昭和四三年六月八日 一二〇/八〇

同年八月八日 一二〇/九〇

同月二八日 一一〇/八〇

同年一二月一四日 一二〇/九〇

昭和五〇年一一月一日 一三二/九四

昭和五二年八月二三日 一二二/九〇

昭和五六年二月七日 一三〇/八二

昭和五七年一〇月五日 一七〇/一一〇(昭和五七年度教職員一六八/一一六循環器系第一次検診)

同月八日 一三四/八六(三楽病院)

同月一九日 一四四/八六(三楽病院)

昭和五八年一二月五日 一四〇/九〇

(二)(昭和五八年度〔同年四月以降〕の職務内容及びこれに関連する事実)

(1) 原告は、化学科の授業を週に一四時間受け持っており、写真部の顧問であった。

(2) 原告は、三年四組の学級担任であった。志村高校では担任持ち上がり制がとられていたが、この学級は担任が毎年変わっていた。同学級については、喫煙、暴力、授業妨害、器物損壊、教師への反抗等に細かい指導を要し、同学年末に単位不認定の教科を持つ生徒が全体で一二名いたうちの六名が同学級にいた。

(三)(本件疾病前の三か月間の職務内容及びこれに関連する事実)

昭和五八年一二月一日以降の原告の勤務状況は別表(1)のとおりである。

本件疾病前の三か月間の原告の仕事振りについて、当時志村高校長の被告に対する昭和五九年六月二五日付け報告書には次のような記載がある。

「植田教諭は、極めて責任感旺盛、教育熱心で、性格や状況のさまざまの生徒に対し、日々の学習指導又は就職・進学の進路指導に精力的、献身的に努力し、特に卒業期の近づいた時点では、卒業並びに就職の困難が予想される生徒に対する指導に、いろいろと心をくだいていた。

主なものを次にあげる。

(1) 女生徒K 家出 (一二月初旬~一月末)

(2) 女生徒Sほか数名 授業料未納(二月末)

(3) 男生徒Tほか数名 化学単位不認定問題(一月下旬~二月上旬)

(4) 男生徒Sほか一名 卒業不認定問題(一月下旬~二月)

(5) 女生徒Sほか三名 就職先未定(一二月~二月)

(6) 女生徒S 体育単位習得問題 (二月)

右生徒たちに関連し、家出生徒については自ら心当たりを捜し回り、就職未定の生徒に対しても就職口を求めて歩くなど親身になって指導し、授業料未納生徒に対しても家庭訪問を行うなど手を尽くした。」

(四)(本件疾病発症前後の状況)

昭和五九年二月二二日、東京都立高等学校の入学者選抜学力検査(以下「入試」という。)があり、原告は、同日から同月二四日までその監督等を行った。

同月二五日、原告は、学校から、女生徒S方に授業料納入の督促に行くことを依頼されてS方に赴く途中、前記転倒事故により傷害を負い、同月二六日から同月二八日まで(その間、同月二七日には三楽病院で受診)自宅で療養し、同月二九日朝、救急車で三楽病院に運ばれ、同病院に入院して上田昭医師の診察を受け、CT画像の所見により右被殻(内包部)の脳出血による片麻痺と診断された。

4  原告は、同年四月九日付けで被告に対し、「左前腕・左肩打撲及び脳出血」は公務に起因して発症したものであるとして、公務災害認定請求をした。

被告は、昭和六〇年三月二七日付けで原告に対し、「左前腕・左肩打撲」については公務上の災害、「脳出血」については公務外の災害と認定する処分をし、その旨の通知をした。

5  原告は、脳出血について公務外の災害と認定された点について、同年五月二二日付けで地方公務員災害補償基金東京都支部審査会に対し審査請求をしたが、昭和六一年七月二日付けで右審査請求を棄却され、さらに、同年八月一四日付けで地方公務員災害補償基金審査会に対し再審査請求をしたが、昭和六二年七月一日付けで右再審査請求を棄却され、同月一六日右棄却裁決書の送達を受けた。

二(争点)

本件の争点は、原告の脳出血と公務との相当因果関係の存否である。

右争点に関し、当事者双方は次のとおり主張する。

1(原告の主張)

(一)(基礎疾患等のリスクファクターについて)

(1) 原告は定期的に医師の加療を受けていた疾病はなかった。

(2) 国際保健機構(WHO)の血圧分類によると、正常血圧は一四〇/九〇未満、高血圧域は一六〇/九五以上であり、その間は境界域である。これによると、原告の前記血圧値は、拡張期のみが六回境界域であったにすぎず、高血圧域の値を示したのは昭和五七年一〇月五日の検査値のみであり、しかも右検査の直後の再検査では正常又は境界域だった。したがって、原告に高血圧の基礎疾病があったとはいえず、医学的にも日常生活の制限や降圧剤投与等の管理は必要なかった。

(3) 原告は、かつては一日二〇本程度喫煙していたが、昭和五八年五月以来禁煙しており、飲酒は殆どしていない。体格は、身長一七〇センチメートル、体重七二キログラムと中肉中背で、とくに肥満はなく、また、原告の家族に脳出血既往者はおらず、そのほかにも、原告に脳出血に関するリスクファクターはなかった。

(二)(職務の過重性について)

(1) 志村高校の昭和五八年度三年生は、昭和五六年四月、四七〇名の新入生で出発した学校群制度最後の学年であった。同年、同高校は校舎改築に伴い九学級から一〇学級に増学級し、そのため、それまでよりさらに学力の低い生徒を入学させる結果となった。同学年は、喫煙、暴力、授業妨害、器物破壊、教師への反抗、暴言等にとくに細かい指導を要した学年であり、卒業時までには、例年より多い五八名の生徒が退学した。

(2) 原告が昭和五八年度に担任を受け持った三年四組は、学年中最も問題児が多く指導に困難を極める学級であった。喫煙、暴力、授業妨害、器物破壊、教師への反抗、暴言等に対し、様々な生活指導を要した。また、成績面においても、昭和五九年二月一日の卒業認定会議資料によると、同学年全体の中で単位不認定の教科を持つ生徒一二名中半数に当たる六名が同学級に集中していた。同学級には、喫煙や暴力行為で謹慎処分を受ける生徒がおり、授業態度の悪さ、教室のきたなさは学年一で、多くの教員から敬遠されていた。

同校では、学級担任教員と生徒との密接な関係をつくるために、三年間同一の担任教員を当てる担任持ち上がり制を採用していたが、同学級については毎年担任が変わった。すなわち、一年次の担任教諭は五〇歳過ぎのベテラン教員であったが、管理的な締めつけをしたところ、生徒が反発し、授業中の私語、奇声、うろつきが横行し、掃除もなされず、成績も学年で最も低く、収拾がつかない学級となった。同教諭は、「すごい生徒が大勢いて、とても手に負えない。」と口癖のように話し、ほとんど指導を放棄する状態で、一年間で退職した。また、二年次の担任教諭は若い教員であったが、ほとんど生活指導をしないまま転勤してしまった。

(3) 三年次においては、同校の教員の中には三年四組の担任をする希望者がなかった。原告は、このような状態の生徒をあわれに感じ、また、それまでの自分の教育理念の総括という意味で、周囲の友人の忠告にもかかわらず、高齢をおしてあえて同学級の担任を引き受けた。

原告は、当初、掃除と欠席、遅刻の届出の二点に絞って徹底した指導をし、次いで、休講の空き時間や昼休みに外に出て喫煙する生徒が多いので、同年五月、ホーム・ルームの時間に「先生は暇を見つけて外を見回るから、もし、喫煙を見つけたら職員会議にかけずに退学してもらう。そのかわり、先生も禁煙し、もし生徒たちが先生の喫煙しているのを見つけたら、ただちに教員を辞職する。」と宣言するというように、身近な問題から一つずつ指導し、その成果を見ながら前進した。原告は、化学準備室に菓子やコーヒーを用意し、休み時間や放課後には、自分の仕事をせずに生徒と話をしたり、担当以外の教科についても質問を受け、また、補習の世話をし、暇なときは卓球やトランプをしたり雑談をするなど、寸暇を惜しんで生徒との接触に努めた。原告は、担任学級の生徒が一人でも在校しているときは先に帰宅せず、夏期休暇中、生徒が登校するときや文化祭の準備で遅くなるときも必ず生徒と行動をともにした。オートバイでの登校、異装での通学等、校則違反の生徒については、学校周辺を巡回するなどして生徒に注意する一方、他の教員からの指摘には生徒を庇った。こうして、少しでも気を弛めると逆戻りする状態の中、原告は、創意工夫を凝らし心身ともに大変な苦労をして、教師に対する反抗と不信の念を取り除き、腹を割って対話する状況をつくった。原告は、生徒との接触の場を積極的につくり、生徒の個性を知り、その性格に応じた注意、指導をするように努めた。

その結果、成績面では単位不認定の問題が残ったものの、生活面では、卒業時まで、喫煙や不正、暴力行為等の問題を起こす生徒は一人も出なかった。また、授業中の態度もよくなって、教員からの批判もなくなり、教室も美化され、三年生になって初めて文化祭に積極的に参加できるようになり、明るくまとまりのある学級となった。

(4) しかし、このような指導についての緊張の連続のために、原告には疲労が蓄積していった。原告は、家出生徒の対策、非行生徒の指導、さらに、遅れた生徒の補習や大学受験の指導も熱心に行ったため、学校では生徒指導、学級指導に追われ、教材や試験問題の作成、採点、受験者用内申書の作成等はすべて自宅に持ち帰り、日曜日、研修日、夜間等に処理した。そのため、睡眠時間も削るほどで、原告は、帰宅後持ち帰り作業をする前にひと眠りするようになり、また、たとえば、それまで職員会議で居眠りなどしたことがなかったのに、昭和五八年一一月ころ三〇年勤続者表彰者の表彰状を授与された際、うとうとして自分の名前が呼ばれたことに気づかず、隣の教員に注意されてあわてて立ち上がって爆笑を呼んだりしたこともあった。

本件疾病発症前一年間に原告が担当した職務は、原告の健康に悪影響を及ぼす性質のものであり、また、通常の高校教諭に割当てられる職務に比しても、志村高校の他の教諭が行っていた職務に比しても過重であった。原告は、月曜日から金曜日までは、通常でも放課後午後三時三〇分ころから午後六時ころまで、特別の指導の際には午後九時ころまで学校に残って生徒との交流のために時間を割き、土曜日は午後六時ころまで化学の補習をしていた。したがって、授業やプリントの準備は自宅に持ち帰り、午後八時すぎから午後一一時ころまで仕事をするのが長年の日課になっていた。

文化祭のころには、一過性の高血圧状態になり、また、修学旅行の前後や試験の前後など大きな行事の終わった後には、頭痛を訴えることもあった。

(5) 昭和五八年末から昭和五九年にかけては、原告は、右のような日常的指導に加えて、志村高校長の前記報告書で指摘されているように、さらに数々の事件に対処した。

その具体的内容は次のとおりであって、それぞれが苦労の大きいものであった。

① 女生徒Kの家出問題

昭和五九年一月二〇日ころから同年二月一〇日ころまで、女生徒Kが家出をした。この家出は、若い女性教師が女生徒Kに対し、「一、二学期の成績が悪いから、三学期いくら成績がよくても単位はやらない。」と言った言葉に起因するものであり、原告は、Kと仲の良かった生徒に連絡して捜させるとともに、写真を持って、同高校近辺の喫茶店や食堂を回ったり、池袋、新宿、原宿と夜の街を捜し歩いたりした。

② 単位不認定問題等

三年四組には、落第してもう一年通学するか、それとも定時制又は私立学校に転校するか、あるいは就職するかの道の選択を余儀なくされている生徒がいた。原告は、この生徒が中々決断できずにいたためその相談に乗っていた。このほか、卒業単位認定に手当を要する生徒が三、四人いた。

卒業の可否は、建前上同年二月二一日の学年会議で決定されることになっているものの、実際には三月三一日付けの卒業という扱いもあり得た。原告は、担当教科である化学科については、成績の悪い生徒を最後まで個別的に理解するまで指導した上で単位を与えるという考えで、最後まで指導を続けようとしていた。また、原告は、数学科についても追試のための個別指導をし、英語科については同僚にとくに指導を頼んだ。

原告は、こうした学級担任としての仕事のほか、同年二月には自分で作った教材を使って二年生の化学の補充指導を行っており、その教材を、前日、前々日あたりに自らガリ版を切って作成していた。

このように、原告は、同年二月一日以降倒れる直前まで生徒の指導を行い、心労のため気を弛めたら倒れるのではないかと思うほど毎日を戦ってきたのである。

③ 授業料未納問題

授業料の徴収は本来学校事務の仕事であるが、事務長が変わって以来、その督促状を担任教諭が該当の生徒に渡すことになり、原告は苦労した。原告が担当時訪問した生徒Sは、二月生の秋から授業料納入が未納になっており、父親が逃亡生活をしているなどの複雑な事情があって、原告の心労に輪をかけることになった。

④ 入試監督と採点作業

原告は、同年二月二一日放課後、入学試験の会場準備作業をし、同月二二日は入学試験の監督をし、さらに、同月二三日と二四日、板橋高校の一般教室で生徒用の堅い椅子を使用して流れ作業で同試験の採点をした。この採点作業は、例年毎日午後三時ころまで三日間で行っていたものを、二日間で毎日午後六時三〇分ころまでかけて行われた。入試試験の採点作業は、とりわけ緊張を要する仕事であるばかりでなく、他校の教員と一緒に行う作業のため任意に休憩をとるわけにもいかないため、進んで希望する教員はいない。志村高校では教員が交替で担当しており、原告は、三年振りで採点者となった。採点日はいわゆる職免とする扱いにされているが、それは教員の本務を免除し、採点作業に対して報奨金を支給するための取り扱いにすぎず、仕事の内容は東京都が主催するもので、前日には職員会議で教頭が東京都からの作業上の注意事項を読み上げ確認しており、入試の監督、採点作業が公務であることは明らかである。

以上のような本件疾病発症前三か月間の職務は、原告の健康にとくに悪影響を与える性質のものであり、また、志村高校の他の教員の行っていた職務に比しても過重であった。

(三)(転倒事故の経過について)

原告は、同月二五日は職免となっていたので、登校せず自宅で休養してもよかったのであるが、一、二時間目の化学の授業を自習にしていたため、登校して授業をした。原告は、授業後疲れていたため、帰宅して休養しようと思っていたところ、学年主任の武田教諭から女生徒S方に行って、授業料の督促をしてほしいと依頼された。これに対し、原告は、前年四月以来Sに授業料納入を指導してきたが、いまだ未納があり、もはや担任としての限界を超える問題なので、同年一月末に事務担当者に事務方の立場で対処するように一任してある旨話した。また、S方には電話もなく、母親は地方で働いていて時々しか帰宅せず、生徒本人も昼間はアルバイトをしており夜でないと会えないという状況であった。しかし、武田教諭から、「報告の必要上、現状を確認してほしい。」と求められ、原告は困惑したが、傍らにいた野口教諭から「夕方まで教務の仕事をした後、車でS方まで送る。」と言われたので、不承不承これを引き受けることになった。

そして、原告は、同日午後七時三〇分ころ、S方に向かう途中、東十条駅北口歩道橋の階段途中で、残雪に足を滑らせて約一〇段ほど階段を転落し、左前腕、左肩、後頭部等を打撲した。とくに左肩を強く打って激痛で腕を動かせないような状態になった。

(四)(本件疾病発症までの経過について)

原告は、同日午後九時ころ帰宅したが、肩の激痛のため横になることもできなかった。そして、Sに対しては、一年かけて親の指導もし、最後には生徒本人にアルバイトをするようにさせ、それでも不足する分は原告が出してやるとまで言って指導をしてきたにもかかわらず、なお、一方的に家庭訪問をさせられたという思いに腹立たしさを感じ、異常に興奮した状態となり、一睡もできなかった。

翌二六日も激痛が続き、ほとんど徹夜のような状態で、耳鳴りがし、肩の痛みも痺れるような痛みからずきんずきんとする痛みに変わった。食欲もなく、牛乳程度で済ませた。

同月二七日は、午前一〇時ころ三楽病院に行って受診し、打撲と診断され、湿布薬と鎮痛剤の投与を受けた。しかし、同病院から帰宅した直後の午後三時ころから気分が悪くなり、いつもと同じ電灯が笠を被ったようにぼやけて暗い感じがし、家族に向かって「灯りが暗い。」と言ったり、テレビが二重になってちかちかするようになり、頭痛を訴えるなどした。

同月二八日午前八時一〇分ころ、原告は、志村高校に電話し、体の具合が悪いので欠勤すると報告した。そして、家族に、「今日は気分が悪い。頭が重い。」と言って、牛乳コップ一杯だけを飲んだ。まもなく、午前九時三〇分ころ、志村高校の武田教諭からS方への家庭訪問の結果を尋ねる電話があり、原告は、自分が体調が悪くて欠勤すると報告しているのに、事務的報告の必要上の問い合わせがなされたと激怒し、「僕の言ったとおり親にも会えずだめだった。」と短く答えて電話を切ると、家族に、「何が家庭訪問の結果だ。人の体のことも聞かず。」と言った。同日夜には、頭が朦朧となり、何を見てもただぼうっとしていような状態だった。

原告は、同月二九日、起床後午前七時ころ、シャツを着てボタンをはめているとき手が震え、倒れそうになってその場にしゃがみこみ、這って行って家族に異常を知らせた。そして、救急車で三楽病院に運ばれ、脳出血と診断されたのである。

(五)(公務起因性について)

原告の血圧は、昭和五八年度文化祭直後の一時的な高血圧を除いて、正常ないし境界域であった。これを脳出血の基礎疾患とみても、基礎疾患を有する職員の脳出血の公務起因性の判断に際しては、公務の遂行が基礎疾患と共働原因となって脳出血が発症したと認められるときには、職員がその結果を予知しながらあえて公務に従事するといった特段の事情がない限り、公務起因性を肯定すべきである。原告の血圧傾向は前記の程度のものにすぎず、他にも脳出血のリスクファクターはなかったから、基礎疾患が最有力な原因となったとは考えられない。これに対し、原告の前記職務遂行状況は、一般の高校教員に比しても、志村高校教員に比しても極めて過重であり、遅くとも昭和五九年二月二五日の転倒事故までには原告は過労状態に陥っていた。それに加えて、転倒事故後本件疾病発症まで、原告は、右事故による激痛のため、安眠できず、食欲も低下して正常に食事もとれなかったため、身体が極度に消耗した状態になった。そのような状態にあった原告にさらに同月二八日朝の志村高校からの家庭訪問についての問い合わせの電話があったわけである。

したがって、本件疾病発症に至る原告に加わった負荷として、原告を過労状態に陥らせた前記のような公務、転倒事故による激痛やそこからきた不眠、食欲欠如等による消耗という身体的、精神的ストレス、授業料未納者の家庭訪問をさせたこと及び同月二八日朝の電話での問い合わせという志村高校当局の態度に対する怒り(右のような学校当局の問い合わせを受けることも公務と評価すべきである。)などによる精神的ストレスがあった。本件疾病は、右転倒事故による後頭部打撲も共働原因となっており、以上のような負荷の結果、同月二七日又は同日夜間から翌日早朝にかけて発症したものであって、公務起因性を肯定すべきである。

2(被告の反論)

(一)  本件疾病は、原告の素因による自然的経過として発症した高血圧性脳出血である。

原告には、いつごろからかは明らかでないものの、高血圧症と軽度ながら動脈硬化が認められている。高血圧に動脈硬化が加わった場合高血圧性脳出血発症の危険性は高くなる。一方、三楽病院に入院した当時、原告は、「脳出血、高血圧症、肺炎、慢性肝炎」等と診断されている。「肺炎、慢性肝炎」は脳出血とは直接の関係はないにしても、原告の体調が思わしくなかったことが表れている。時期は脳出血が発症し易い冬期であり、本件疾病は原告の素因による自然的経過の結果発症したものと解される。

(二)  その発症時期は、次の点から昭和五九年二月二九日朝と判断するのが妥当である。

原告は同月二七日及び二八日に頭重感や複視を訴えているが、それらは脳出血の初期症状とは考えがたく、とくに複視等の視力障害は内包部の急所症状とは考えられない。そして、脳出血における症状の発現は急激であるのが普通で、高血圧性脳出血の症状は一〇分ないし一、二時間で完成するのが通常である。

(三)  本件のような循環器系疾病が公務上の災害と認定されるためには、次のいずれかに該当することが必要である。

(1) 職務上の負傷が原因となって発症したことが医学的に認められること。

(2) 発症前に過激、過重な業務による精神的、身体的負担があったことが認められ、医学的にみてもその過重性が原因となって発症したことが明らかであること。

(3) 基礎疾病あるいは既存疾病がある場合には、職務上の過重な負担が原因となって、当該疾病の自然的発生又は自然的増悪に比し、著しく早期に発症又は急激に増悪したと医学的に認められること。

(四)  しかし、本件疾病は右のいずれにも該当しない。これを具体的に述べると次のとおりである。

(1)(転倒事故による頭部負傷の原因性について)

原告が転倒事故により頭部に傷害を負ったかどうかは明らかでない。仮に負ったとしても、脳震盪などの症状はなく、また、事故後に薬局で左手の甲の擦過傷の処置をしてそのまま生徒方に家庭訪問に行っており、歩行可能であったことは明らかである。また、事故と発症との間隔からも、さらにCT所見からも、転倒事故での頭部の負傷による外傷性脳出血の可能性は否定される。

(2)(職務の過重性について)

都立高校の教諭は、全員が教科の授業を担当し、学級を担任するか又は教務部、生徒部、進路部などに所属して校務を分掌するほか、生徒会の学芸部や運動部の顧問に就任し、生徒を指導している。原告は当時五三歳で昭和二八年以来東京都公立学校教諭として職務を担当してきたベテラン教員であり、また、本件事故前に原告の特別の負担となる仕事はなく、職務上多少の心労はあったにしても、それは東京都立高校教職員が通常行っている職務の範囲内のことで、とくに過重なものとはいえない。

原告は、担任の学級の特殊性を主張し、そのために原告の精神的、身体的な負担が大きかったと主張するが、原告の列挙する家出、授業料未納、単位未習得、授業補習等々の問題は、程度の差は多少あるにしても、いずれの学校、学級にもみられることであり、決して当該学級だけのことではなく、こうした問題に対しては、校長、教頭、校務を分掌する各部教員、学級担任等がそれぞれの立場で対処していることであって、原告だけに特有の仕事となっていたわけではない。仮に、原告が他の教員らに比べて、多少時間外勤務が多く、特別に労力を要する仕事を行い、自宅に仕事を持ち帰ってしたことがあるとしても、休日出勤、深夜勤務等はなく、時間外勤務もそれほど多くない。社会一般の事例からみて、こうした職務が原告にとって過重な負担となり、生活のリズムが崩れたり、精神的、身体的負担となったりしてストレスを蓄積させたとは到底考えられない。

昭和五八年一二月からの原告の勤務状況をみても、過激、過重な仕事としてとくに留意すべきものは見当たらない。昭和五八年一二月二五日から昭和五九年一月八日まではいわゆる冬休みであり、通常の仕事に伴うストレスは緩和ないし解消されていたものとみられる。また、毎週月曜日は研修日で、原告は出勤していない。とくに、昭和五九年二月一九日は日曜日、翌二〇日は研修日であり、翌二一日は授業はなく、午後一時二〇分から午後三時三〇分まで職員会議があっただけである。転倒事故当日も、午前中二時間の授業を行った後、午後は同僚らとテニスを楽しんでいる。

(五)  以上を要するに、原告が職務上抱えていた懸案事項による精神的、肉体的負担に、原告の不本意な家庭訪問及び転倒事故による肉体的、精神的負担を加えてみても、これが直ちに、医学上、原告の脳出血の発症原因となったとみることは困難であり、本件疾病と公務との間に相当因果関係はない。

第三争点に対する判断

一  本件疾病が発症した原因について、原告は、①昭和五八年度の職務遂行状況とくに同年一二月以降の職務が過重であったこと、②転倒事故による激痛、③そのために安眠できず、食欲も低下して正常に食事もとれなかったために身体が極度に消耗した状態に陥ったこと、④志村高校当局の態度に対する怒りなどによる精神的ストレスがその原因であると主張し、なお、⑤転倒事故による後頭部打撲も共働原因になっていると主張する。これらの点が本件疾病発症の原因といえるか、これらの中に発症原因といえるものがあったとしてもそれが公務と相当因果関係のあるものといえるか、が本件の中心的争点である。

二  ところで、右⑤の主張の趣旨は必ずしも明確でないが、本件疾病が転倒事故で後頭部を打撲したことによる外傷性脳出血である可能性を前提とする主張とも解されるので、まず本件疾病の性質について判断する。

1  この点についての原告の供述等の状況をみるに、甲第二五、第二六号証によると、原告が、本件審査請求手続段階から転倒時に後頭部を打ったと主張していたことが認められ、原告本人の供述中にも、「転倒して一回転する際後頭部を打った。」という部分がある。

しかしながら、同供述によっても、昭和五九年二月二七日の受診の際「医師に他に痛みがないか尋ねられたが、頭を押すと痛いという感じだった。」という程度のことで、「頭部を打ったのは事実だが、直接異常を感じるほどの激痛ではなかった。」というのであり、さらに、後記認定のとおり、原告は転倒事故後、左手の甲に擦過傷のあることに気づき、そのままでは体裁が悪いと考え、自分の判断で薬局に立ち寄ってその傷の処置をしてもらい、途中交番で道を尋ねるなどして、家庭訪問を了していることが認められるのであって、その後自宅に戻って休むまでの経過を含めて、原告に何らかの意識障害や神経症状等問題となる症状が表れた形跡はまったくない。甲第四号証の三によると、昭和五九年二月二七日に三楽病院で受診した際の診断名は、「左前腕、左肩打撲」で、当時のカルテ(甲第三〇号証の一)にも「頭部打撲」等の記載はなく、受診時の訴えにその点の明確なものはなかったことが推認されるのであり、これらの証拠関係に照らすと、原告が仮に後頭部を打撲していたとしても、その程度は軽かったものと解される。

以上の認定事実に、《証拠省略》を照らし合わせて考えると、原告の本件疾病が転倒事故による後頭部打撲による外傷性脳出血であったとは到底解し得ない。

なお、原告は、甲第三一ないし第三三号証の医学文献を援用して、遅発する外傷性脳出血もあり得ると主張するもののようである。しかし、右各甲号証で紹介されている血腫形成までかなりの時間を経過したとみられるいわゆる遅発性外傷性脳出血は、その記載自体からみて、主として激しい交通事故等により重症の頭部外傷を負い、他にも意識障害や麻痺等の症状を示していたり、脳内の異常が確認されたりしていた症例に関するものであり、脳幹部の出血、血腫形成は二次的損傷として捉えられているにすぎない。原告の場合は、後記のとおり、高血圧性脳出血の好発部位である被殻部に専ら出血がみられたものであるところ、被殻部のみに出血をみる外傷性脳出血というものは極めてまれであることは、むしろ右各甲号証によっても明らかである。

2  そして、《証拠省略》によると、原告が昭和五九年二月二九日朝、三楽病院に入院してからの症状について、次の事実が認められる。

すなわち、同病院での検査で、原告の血圧は入院時に一五八/一〇四、当日午後は一五八/一〇八であって、翌日以降は治療によって一三〇ないし一四〇/八〇ないし一〇〇、さらに一二〇ないし一三〇/七〇ないし八〇と下降しており、眼底検査では、シャイエ分類で高血圧一度、動脈硬化一度、心電図では左偏位の異常所見があり、血液化学検査では、コレステロールは二三六ミリグラム/デシリットルと高値で高脂血症の状態にあり、白血球数が七五〇〇と正常値の上限、CRP反応が陽性で炎症の存在が、また、神経学的所見として、左片麻痺及び左片感覚障害が、頭部CTで右被殻出血及び右側脳室の圧迫が、それぞれ認められた。

右事実に前記のような争いのない血圧の推移と医学文献の記載及び各医師の意見を総合すると、原告の本件疾病は高血圧性脳出血であり、その出血は高血圧性脳出血の好発部位である被殻部(内包部)に専ら起こったものと認められる。

三  高血圧性脳出血の発症要因として、発症前の量的又は質的に過剰な身体的又は精神的負荷の存在を指摘することが一般的であるが、その発症機序に関する医学的説明として本件証拠に表れたものをみると、《証拠省略》によれば、中枢神経のある視床下部は、前頭葉や脳幹部と密接な線維連絡を保って、血管の収縮や拡張、血液凝固能、副腎皮質ホルモンの分泌などの自律神経作用を調節しているところ、情動、精神的、肉体的ストレスの過度の負荷によって、前頭葉や脳幹部も興奮し、視床下部に影響し、右のような自律神経作用に影響を及ぼし、直接的、間接的に、脳出血発症のリスクファクターである高血圧、心電図異常等に影響し、とくに高血圧症患者の場合には、交感神経系が過敏な活動性を有し、心理的ストレス負荷により著明なエピネフリンの尿中排泄量の増加を来し、著明に血圧が上昇するため、血圧正常者に比べて心理的ストレス負荷に対して有意に昇圧反応を示すとされている。また、鑑定人上畑鉄之丞の説明によると、情動ストレスといわれる絶望、不安、抑制された敵意(怒り)等の精神的ストレスは、アドレナリンやノルアドレナリン等の昇圧物質の分泌を高め、直接又は自律神経の緊張を介して間接的に、血圧の上昇をきたすものと考えられており、境界域を含め高血圧の者の場合には、正常血圧の者に比べて、ストレスとくに情動ストレスによる血圧の上昇が著しく、また、栄養不良等による衰弱や不眠等による身体条件の悪化なども血圧を上昇させる要因となる。

四  そこでまず、昭和五八年度の原告の職務の状況が過重といえるかについて判断する。

1  争いのない事実、《証拠省略》を総合すると、昭和五九年二月二五日の転倒事故までの原告の勤務に関し、次の事実が認められる。

(一) 原告は、昭和二八年九月一日付けで東京都上板橋第一中学校の数学の教師になって以来、東京都の区立中学校及び都立高等学校の教諭をしてきたものであるが、昭和四一年四月一日付けで当時第四学区内で最も低いランクとされた志村高校に進んで赴任し、以来、同校で熱心に教育業務に従事した。志村高校に入学する生徒は中学校の内申書での成績が概ね三以下の生徒であって、同校は、本件当時も学力面で都立高校の最低位に位置付けられており、また、家庭環境等にも問題を抱えている生徒が多かった。原告は、同校において、平素から、生徒の能力等に応じた授業の進め方や教材について様々な工夫をし、学習に遅れのある生徒の補習等を熱心に行っていた。

(二) 昭和五八年四月、同校は、校舎改築に伴って従前の一学年九学級から一〇学級(一学級四七名)に学級数を増やし、四七〇人の新入生を入学させた。

この学年には、喫煙、暴力、授業妨害、器物破壊、教師への反抗、暴言等の問題があり、卒業時までには五八名の生徒が転退学した。しかし、同校では通常でも入学者の一割程度の転退学者が出ており、いわゆる問題児を抱えるという事態は異例のことではなかった。

また、原告が昭和五八年度に新三年生の四組を担任するについては、次のような経緯があった。すなわち、同校では、生徒との関係を密にし指導の実を挙げるために原則として同一教諭が担任を持つ担任持ち上がり制がとられていたが、原告が担任を受け持ったこの学級では担任が毎年変わっていた。同学級には、喫煙や暴力行為で謹慎処分を受けた生徒もおり、総じて授業態度が悪く、掃除をしないために教室もきたなく、また、教師への反抗もあって、多くの教員に敬遠されていた。こうした状態で三年になる同学級(生徒数三九名)については担任となる引き受け手がなく、後任の担任が中々決まらない状態が続いた。同校の人事委員であった冨田浩康教諭は、原告が教育に対して強い使命感をもっており、かつてこれと同じような事例で途中から担任を受け持って無事卒業させたこともあることや原告のいる化学準備室にはこの学級の生徒も相談事に行ったりしているという事情などから、原告に同学級の担任を頼み込んだ。原告は、自分の年齢等を理由に当初これを断っていたが、担任の引き受け手がないという状態に義憤を感じ、同学級の担任を引き受けることになった。

(三) 昭和五八年度の志村高校の校務分掌は別表(2)のとおりであり、原告には特段の校務の担当はなかった。原告の職務は、三年四組の学級担任であり、生徒会顧問の関係では写真部の顧問であった。また、原告の同高校における当時の勤務時間は、月曜日が研修日、火曜日から木曜日までは午前八時三〇分から午後五時一五分まで、金曜日は午前八時三〇分から午後五時五分まで、土曜日は午前八時三〇分から午後〇時四〇分までとなっていた。昭和五八年一二月一日以降の原告の主たる職務と時間外勤務をしたときの退勤時刻等を一覧表にしたものが別表(1)である(定時に帰宅しているときは特段の記載がない。)。

これを要するに、原告の平常の勤務は、週一回出勤を要しない研修日があり、土曜日は原則として半日の勤務であり、その余の週日は午前八時三〇分から午後五時過ぎまでの勤務で残業といっても精々午後七時から八時ころまでのことで、さほど長時間の勤務とはいえない上、昭和五八年一二月以降についてみれば、同月二四日の終業式の翌日は研修日で、その後は指定休も含めて休暇に入り、昭和五九年一月九日の始業式までは特別の職務はなく過ごし、その後も適宜年次有給休暇を取得しているのであって、こうした点では、原告の職務の内容、程度は、世間一般の水準に比べて過重とはいえないものであった。

同学級の担任になって以来の原告の具体的な仕事振りという観点からみると、二年次まで前記のような状況であった学級が三年生になってからは、原告の工夫を凝らした指導の成果が早々に表れ、原告が担任になって間もなく授業妨害もなくなり、教室は見違えるようにきれいになり、生活面でかなりの改善がみられた。原告は、生徒たちの心を掴み、卒業時まで、喫煙や不正、暴力行為等の問題が表面化した生徒は一人もおらず、また、他の教員らからも授業中の態度がよくなったと評価され、昭和五八年九月末の文化祭(なお、原告はこの直後に一時的高血圧状態を生じたかのように主張するが、原告の血圧が一七〇/一一〇、一六八/一一六という値を示したのはその前年の昭和五七年一〇月のことであり、原告の右主張事実を認めるに足りる証拠はない。)にほぼ全員で参加するなど、協調性のある学級とみられるまでに至り、原告の生活指導は大いに成果を挙げた。また、学業面では、原告は、化学科の授業について生徒の力に合わせた副教材のプリントを自分で作成するなどの準備をし、平生から、原則として水曜日と土曜日の放課後を補習の日とし、授業とは別の平易なプリントを用意して理解不足の生徒に対する指導をし、それでも理解できない生徒には個別の指導を別に行ったが、こうした指導方法は、難しいとされる課題に対しても努力すれば理解できるという自信を持たせるべきだという原告の平素からの教育理念に基づくものであって、それまでの教師生活の中で原告が一貫してとってきた方法であった。

(四) 昭和五八年末から昭和五九年にかけての原告の勤務に関しては、なるほど右のような日常的勤務のほかにいくつかの問題がみられる。

すなわち、

(1) 昭和五八年一二月初めころ、原告の担任の女生徒Kが家出をし、翌昭和五九年一月下旬まで戻らなかった(なお、家出の時期に関して、原告は、昭和五九年一月二二日から同年二月一〇日ころのことのように供述するが、甲第一八、第一九号証によって、この生徒の帰宅の連絡があったのは同年一月二八日のことと認められる。)。原告は、この生徒と仲の良かった生徒に連絡して捜させたり、自分でも、写真を持って同校近辺の喫茶店や食堂を回ったり、無駄と知りつつ池袋、新宿、原宿と夜の繁華街を捜し歩いたりしたこともある。

(2) 同年二月一日の昭和五八年度卒業認定会議の段階で卒業の可否について議論を要する生徒は全校で一二名おり、そのうち半数に当たる六名が同学級の生徒であった。もっとも、最終的に卒業不認定となったのはそのうち二名であり、他の四名は卒業が認定された。

原告は、担当教科である化学科について昭和五九年一月下旬以降補習を行い、また、数学科についても追試のための個別指導をした。

(3) 同高校では、家庭的に恵まれない生徒も少なくなかったため授業料の未納者があり、原告の学級でも卒業を前にして女生徒Sほか数名が授業料を未納にしていた。その徴収業務は本来学校事務の仕事であるが、生徒の家庭の事情等をよく知っている担任にその納入の督促等も依頼されることが多かった。

原告の担任学級に起こった以上のような問題について、同僚である冨田教諭は原告にかなりの苦労があったものと推察しているが、他方、こうした問題は、同高校においては多少の差はあれ毎年、各学級で起こることであった。

(五) 転倒事故直近の状況をみても、昭和五九年二月一九日は日曜日、翌二〇日は研修日であり、翌二一日は授業はなく午後一時二〇分から午後三時三〇分まで職員会議があっただけであった。

同月二二日から同月二五日までの間は都立高校の入試のため、原告は職務免除の措置を受け、同月二二日に入試の監督をし、同月二三日及び同月二四日その採点作業を行った。これらの作業は各高校の教員が共同で行うもので、原告のみが担務したわけではなく、合計七校分、総数三〇〇〇余通の答案の採点作業に加わった教員は、各科目について、各校から三、四人で全体では二十数人程度であった。

予定の上では同月二五日も採点作業が行われるはずであったが、前日に予定時間を延長して午後六時三〇分ころまでで採点を終了させたので、同日、原告は、自習にしていた二年生の化学科の授業をするために登校した。原告は、授業後は帰宅して休養しようと思っていたところ、学年主任の武田教諭から授業料の滞納が続いている前記女生徒S方に行って、その督促をしてほしい旨依頼された。Sについては二年生の秋から授業料納入が未納になっており、父親が家を出ているなどの複雑な事情があって、原告は、前年四月以来Sとその母親を呼んで指導してきたが、問題は既に担任としての限界を超えていると考え、同年一月末ころ、同校の事務担当者に事務方の立場で対処してほしいと要請してあった。また、S方には電話もなく、母親は地方で働いているということで時々しか帰宅せず、生徒本人も昼間はアルバイトをしており夜でないと会えないという状況でもあり、原告は、こうした事情を述べて「行っても無駄だ。」と話したが、武田教諭から、「報告の必要上、現状を確認してほしい。」と求められてしまった。原告は当惑したが、同じ化学科担当の野口浩孝教諭が夕方まで仕事をした後、車で送ろうととりなしたので、不承不承これを引き受けることになった。

そして、原告は、その後同僚教諭らと三時間ほどテニスをした後、暫時休憩してから、野口教諭に東十条駅近くまで車で送ってもらい、S方に向かうため、午後七時三〇分ころ東十条駅の鉄道線路を越える東十条駅北口こ線人道橋を渡った際、転倒して受傷した。

(六) 以上の間の原告の健康状態や健康管理の状況等についてみるに、同僚の前記野口教諭によると、原告は、学校を病気で休んだりしたことはほとんどなく、とくに発症直前の二か月間はまったく健康に見えた、物事に一途に打ち込む性格であり、生徒の指導に悩んだり疲れたりする面もあったが、卓球やテニスでリラックスしたりもしていた、睡眠時間は日ごろからかなり少ないと聞いていた、というのであり、一方、前記冨田教諭によると、お互いに太っているし血圧が高いとか疲れると血圧が高くなるなどという話をし合ったこともある、原告は健康に神経を使う方だと思う、というのである(なお、《証拠省略》によると、昭和五八年一二月五日に原告が前記白山診療所で受診し、血圧測定もしていることが認められる。右事実によれば、その当時原告の体調が優れなかったことが推認されるが、その受診が何のためであったかは本件証拠上不明である。)。

2  以上のような経過に照らして考えるに、原告が教育に対する強い使命感をもち、問題のある生徒らを抱えた学級を様々な工夫で適切に指導して生徒の側の信頼も得、少なくとも卒業時まで特段の問題を生じさせることがなかったばかりでなく、むしろ協調性のある学級とみられるところまで指導していったことは、高校教師の仕事振りとしてもとより高く評価されるべきものである。しかしながら、これを公務遂行による身体的、精神的負荷とりわけストレスの多寡という面からみれば、原告の都立高校教諭としての職務の状況は、校務の分担等の基本においては一般の教諭と異ならないものであり、それなりの休日等もとっており勤務時間も決して長いとはいえず、特別の時間外勤務等もなく、とくに原告の公務の遂行が不規則になったり多量になったりして原告に過重な負担としてストレスを形成したとみることは困難である。また、質的にみても、なるほど原告が生徒指導に大いに工夫努力したことは認められるものの、そのことから直ちにストレスが大きいといえないことはもちろんである。そして、原告がもともと教育に対する強い情熱をもっており、この年度に生活指導等について工夫を凝らして目の当たりにその具体的成果を得ていった経過とに鑑みると、原告の工夫努力が報われていったこれらの仕事は、苦労があったにせよ、原告にとってむしろやり甲斐のある仕事であり、苦労の反面としての充実感もあったものと推認される。さらに、学業面についてみても、原告が様々な工夫努力をしたことが認められるが、それは平素からの原告の指導の手法であり、当該年度に限ったことではないのであって、以上のような経過の中で原告が遂行した公務自体は、社会一般の、あるいは、高校教師としての仕事からくる身体的、精神的負荷、ストレスの程度という観点からみると、いまだ一般に比較して著しく重いものであったものとまではいうことができず、また、それまでの原告の職務の状況に比して格別に過重なものであったともいえない。

原告は、昭和五八年一二月からの原告の勤務状況についてとくに苦労が多かったと主張するが、前記認定のとおり、昭和五八年一二月二四日の終業式以降翌昭和五九年一月九日の始業式までは特別の職務はなく、その後も適宜年次有給休暇を取得しているのであって、とくに長時間の激務になった時期があるわけではない。卒業認定の問題にしても授業料未納の問題にしても、他の教員に比して特別過重な負担がかかったものとは解し得ず、この間、同年一月下旬までの間は家出した生徒の行方が分からない状態が続いていたことは認められるものの、それ以降原告に過重な負荷を与える特段の職務は見当たらない。そして、転倒事故までの直近の状況をみても、昭和五九年二月一九日は日曜日、翌二〇日は研修日であり、翌二一日は授業はなく、午後一時二〇分から午後三時三〇分まで職員会議があっただけである。同月二二日からの入試監督と採点作業についてみても、原告が独り特別の任務としてこれを行ったわけではなく、同高校でも相当数の教員に右職務が割り当てられており、採点の会場には七つの高校の多数の教員が一堂に会して作業が行われているのであって、これをもって原告のみの特別の負担ということはできない。転倒事故当日も、午前中二時間の授業を行った後、午後は同僚らとテニスを楽しんでいる。こうした経過の中で、原告に教員としての心労があったにせよ、前記のような余裕のある勤務時間体制は一定程度の心労が必然的に伴いがちであることをも考慮に入れたものということができるのであって、そうした心労が原告の健康に異常をもたらすほど過重なものであったとは到底解し得ず、また、それなりの負荷が仮に存在したとしても、それと本件発症とを医学的に結び付ける証拠はない。

五  次に、転倒事故後の痛み、不眠、摂取不良、怒り等の原告主張の要因を介して、公務と本件疾病発症との相当因果関係を肯認することができるかについて判断する。

1  転倒事故の際の状況及び事故後本件疾病発症に至る経過について、《証拠省略》を総合すると、次の事実が認められる。

(一) 原告は、昭和五九年二月二五日、前記のような経過でS方に向かおうとして、午後七時三〇分ころ東十条駅の鉄道線路を越える東十条駅北口こ線人道橋を渡った。その階段を残雪を避けながら降りる途中で、足を滑らせて前のめりに倒れ、階段一〇段ほどを一回転しながら転落し、左前腕、左肩等を打撲した。とくに左肩の痛みが強かったが、歩行は可能であった。原告は、左手の甲に擦過傷のあることに気づき、そのままでは体裁が悪いと考え、自分の判断で薬局に立ち寄ってその傷の処置をしてもらい、途中交番で道を尋ねるなどして、S方に行った。S方には生徒はいたが、母親がいなかったので、原告は、生徒にメモを渡してそのままタクシーに乗って帰宅した。

(二) 原告は、同日午後九時過ぎころ、赤黒く怒った表情で帰宅し、妻が声をかけても日頃と違って無言で自分の部屋に入った、それから三〇分程して台所にやってきて食事の支度をしている妻に、「食事は要らない。」と告げ、左腕に軽く触れただけで大声で「痛い。」と言い、妻が「何を怒っているのか。」と尋ねても、「石段で転んだ。」と言うだけで取り付く島もなく、自室に入ってしまった。午後一〇時三〇分ころ、大声で家人を呼んで床をとるように命じたが、「左腕から背中にかけて痛みが走ってとても横になれない。座って寝るから。」と言い、背中に座椅子を当てさせた。妻が付き添っていたが、原告は、「Sに対しては、一年かけて親から事情を尋ね、その指導もし、最後には生徒本人にアルバイトをするように指導し、それでも足りない分は自分が出すからというような実質的な指導をしてきたにもかかわらず、形式的機械的な家庭訪問を一方的にさせられた。」という思いに腹立たしさを感じ、異常に興奮した状態となり、朝まで仮眠状態だった。

(三) 原告は、翌二六日(日曜日)の午前九時ころ目を覚まし、左腕の激痛を訴え、妻から自宅近くの白山診療所での受診を勧められたが、同診療所には専門医がおらず、とくに日曜日であったため代診では心もとないとして、翌朝三楽病院の整形外科で受診することにした。原告は、「朝食は要らない。」と言って、茶だけ飲み、洗面所に行くのに、「体が痛いから肩を貸せ。」と言って、次女美乃の介助を受けた。妻は、その様子をみて、骨折しているのではないかと思い、急患ならば三楽病院でも受け付けてもらえるのではないかと考え、一一九番をかけようとしたが、原告は、「骨折していたとしても、骨折くらいで救急車を呼ぶな。」と止め、それ以後、便所に行くには次女の介助を受け、昼食も食欲がないと言って、牛乳コップ一杯を飲んだだけだった。そして、右半身が下になるように座布団で背中を押さえて横になって休んでいたが、この日になって初めて、家人に家庭訪問途上で転倒したことを話し、「再三再四生活指導をし、その上で学校事務の方にまかせたのに、月謝未納のことで教師がなぜ家庭訪問して指導しなければならないのか。」と忿懣やるかたない様子で激怒していた。夜間も左肩の強い痛みが続き眠れなかった。

(四) その翌日の二月二七日(月曜日・研修日)は、午前九時ころ目を覚まし、次女の介助を受けて洗面所に行き、食欲がないと言って、牛乳コップ一杯を飲んだだけで、朝食をとらず、その後、三楽病院に行く用意をしたが、痛いと言って肌着の取り替えを嫌がり、ようやく服だけは着替えて、午前一〇時ころタクシーで三楽病院に向かった。同病院での診察で、レントゲン検査等もしたが骨折はなく、打撲との診断を受け、湿布薬と鎮痛剤を投与され、担当医師から一週間くらい安静にしていれば大丈夫だろうと言われた。同病院から帰宅したのは午後二時ころで、「骨折ではなかった。病院がとても混雑していた。少し気分が悪い。」と妻に話し、食事を勧める妻に対して、「食欲がない。」と言って、牛乳コップ一杯だけを飲んだ。午後三時ころ妻と次女が付添いを交替したが、その際、いつもと同じ電灯の明るさなのに「灯りが暗い。頭が重い。」と言っていた。さらに、翌日にかけて「暗いなあ、電球を取り替えなければな。」と言ったり、テレビを見ながら、「眼鏡を換えなければ、二重に見える。」と言って目をこすったりしていた。

(五) 翌二八日(火曜日)は午前八時前に目を覚まし、次女の介助を受けて洗面所に行った後、痛みは和らいだものの気分が悪い状態が続いていたため、勤務を休んで近くの白山診療所に行こうというつもりで、午前八時一〇分ころ、志村高校に身体の具合が悪く休むと電話をかけた。「今日は気分が悪い。頭が重い。」と言って、牛乳コップ一杯を飲んだだけで朝食をとらず、その後、午前九時三〇分ころ、志村高校の武田教諭から家庭訪問の結果を問い合わせる電話があり、次女が原告に取り次いだが、原告は、「僕の言ってたとおり親にも会えずだめだった。」と短く腹立たしげに答えると電話を切り、その後、「何が家庭訪問の結果だ、人の身体のことも聞かず。」と言うと、忿懣やるかたない様子で妻に校長、事務長の批判をした。午前一〇時ころ、眠りもできず、食事もできず、ぐったりとしたまま、「気分が悪い。」と言って、一旦近くの白山診療所に行こうとしたが、鎮痛剤が強い薬のために気分が悪いのだろう、家で身体を休めようと途中でやめてしまった。夜は「頭がぼうっとする、きっと鎮痛剤のせいだろう。」と話していたが、翌日は週一回三年生が登校する日だったので、是が非でも出勤しなければと思い、午後一一時ころ、家人に「明日は学校に行かなければ。」と言い、次女に「明日は卒業式が間近だから出勤しなければならないから、明朝六時半に、もしまだ眠っていたら起こしてくれ。」と頼んだ。その晩は次女は自分の部屋に引き上げたが、原告は、頭が朦朧となり、何を見てもただぼうっとしているような状態だった。

(六) 翌二九日午前六時三〇分ころ、次女が原告の部屋に行って、原告を起こすと、原告は、「うん。」と言って目を開けたが、起床後午前七時ころ、シャツを着てボタンをはめているとき手が震え、倒れそうになってその場にしゃがみこみ、次女の部屋の前に這って行って異常を知らせた。次女が自室の外から原告の呼ぶ声で気がついて戸を開けると原告がうつ伏せになっており、「体が痺れる。硬直していく。頭が変だ。」と微かな声で訴えたので母親を呼び、一一九番の電話をかけた。原告は、「痺れる。揉んでくれ。学校に行くんだ。」とろれつがまわらない言葉を発していたが、間もなく、救急車が来て、午前七時三〇分ころ、三楽病院に運ばれ、同病院で検査等の結果、脳出血であることが判明した。

2  以上のような経過のもとで発症した本件疾病につき、発症の原因、機序及び時期が医学的にどのように解されるかに関して、本件証拠に表れた医師の見解は、衣笠恵士医師の意見と鑑定人上畑鉄之丞医師の鑑定の結果とで顕著に対立している。

すなわち、

(一) 衣笠医師は、発症の時期については、脳出血における症状の発現は一般に急激であるのが普通で、脳梗塞の場合のように動揺しながら症状が完成することは少なく、また、複視等の視力障害は内包部の急所症状とは考えられないとの医学的知見に基づき、これらの訴えのあった二月二七日ころの発症の可能性を否定する。さらに、原告の主張する転倒事故による痛みと発症との因果関係につき、原告が受傷後すぐに医師の診療を受けておらず、三楽病院で受診したのが受傷から二日後であることに加えて、同病院で治療を受けて痛みは和らいでいたと解されることから痛みによる発症は考えがたいとし、武田教諭との電話による会話と発症との因果関係につき、電話による会話内容は、社会生活上よく見受けられる例であって、原告の年齢や社会経験からみて通常感情を制御し得る程度のことであるとして、原告が血圧の急上昇を惹き起こすほど激怒し興奮したということは考えられないとする。また、事故前二、三か月間の職務と発症との因果関係についても、原告の勤務状態は比較的規則正しく、また、従事した公務に特筆すべきものは見当たらないとして、これを否定する見解を示し、結局、本件は加齢による脳動脈硬化の上に発症した高血圧性脳出血であるとしている。

(二) これに対し、上畑医師は、次のように判断している。すなわち、高血圧性脳出血は、通常、高血圧のみでなく高血圧に動脈硬化が加わったときに発症の危険性が高まるものであり、その発症機序は、持続的又は一時的な血圧の急激な上昇により、脳の小動脈の正常な代償性収縮が障害され、その後に血管壊死又は小動脈瘤をきたして出血するものと解されている。高血圧性脳出血の発症を確実に促進する危険要因(リスクファクター)を持つ者としては、年齢の高い者とくに六〇歳以上の者、血圧の高い者、心電図異常のある者、眼底変化の認められる者、蛋白尿のある者、飲酒習慣がある者、飲酒量の多い者等が挙げられており、他方、高コレステロール値の者や肉類摂取(動物性蛋白及び飽和脂肪酸摂取)の多い者の場合には、心筋梗塞等虚血性心疾患の危険性が高いが、脳出血の危険性は低いとされている。こうした疫学的知見に基づいて原告の生活習慣や疾病状態をみると、脳出血の危険要因とされているものの中では、境界域血圧と軽度の心電図異常(左軸偏位)、軽度の眼底所見を指摘し得るのみであって、年齢についても、好発年齢である六〇歳台に至らず、他方で、抑制的要素である高コレステロール値(高血脂症)が認められているので、原告の発症が加齢等の自然的な経過のみによって起こったものとは解し得ず、軽度の動脈硬化所見があり、入院時の血圧値は平常値に比べてかなり高かったことから、原告にもともと存在した動脈硬化及び高血圧傾向という基礎的素因に最大の危険要因とされる血圧の急激な上昇をきたさせた何らかの要因が加わって発症に至ったものと考えられる。出血部位の反対側の片麻痺等が同年二月二九日に発現しているが、被殻部出血の場合には意識障害や出血側への共働偏視、同名半盲という視力障害の症状も伴うことがあり、発症が緩徐なものも多いことに照らすと、原告の場合には右同日の片麻痺の発現以前に「二重にものが見える。」などと訴えているところから、同月二七日夜間から同月二八日早朝にかけて徐々に出血が始まり、同月二九日朝までに血腫が拡大して症状を完成させた可能性が推定できる。そして、転倒事故以後の四日間の身体状況と心理状態、すなわち、転倒による左前腕と左肩の激痛のため横になれず、座椅子に寄り掛かった姿勢で休んでおり睡眠が十分とれない状態が続き、さらに食欲も低下して正常に食事もとれない状況で、事故から入院まで牛乳以外のものは殆ど摂取せず、極端な摂取不良状態のために身体消耗状態にあったと考えられること、及び原告がやり場のない怒りを高まらせ、精神的ストレスを極度に昂じさせていたことから見て、外傷の痛みは緩和されていったものの、他の心身のストレスは解決されないままに持続し、とくに、学校からの問い合わせの電話が原告の怒りを極度に高め、血圧をさらに上昇させる誘因となったものと考えられる。これらが誘因となって血圧が急激に上昇、持続することによって脳血管が破綻したものである、と判断している。

なお、他に医師の明確な見解を示す証拠はない。原告の本件疾病の主治医であった三楽病院の前記上田医師は、事実経過の詳細が不明であるとして原因を不詳としている。また、原告は、同病院の久保田昌良医師から、打撲が直接の原因だとは考えられない、異常興奮、睡眠不足、疲労などが原因で発症したと思う、発症は二月二七日だと思う、という話を聞いたと供述する。しかし、発症原因についての同医師の発言がどれほどの根拠のあるものかを検証することができるだけの証拠はない。そして、原告の供述によっても、同医師は専門医ではないというのであって、右発言は推量の域を出ないものとみるほかはない。

3  右のいずれの意見が医学的に妥当な見解であるかについて、直ちに断定的結論を見いだし得る知見を示す的確な証拠はない(衣笠医師の見解は、一部については、医学上の知見というより一般的な経験則についての同医師の考えに基づいて事実に関する判断をしている嫌いもある。しかし、衣笠医師と上畑医師の見解の対立は、前提事実の認識の差異のほかに、脳出血における症状の発現が一般に急激で、脳梗塞の場合のように動揺しながら症状が完成することは少ないのかどうか、また、本件脳出血によって視力障害を生ずることがあり得るかという医学的問題の当否にかかわっている。前者については、乙第二号証に「脳出血では一〇分ないし一~二時間で症状が完成するのが通例である。」との記載もあるものの、右のみでは、これらの点について、原告の具体的所見との関係でいずれが医学上妥当な見解であるかを断定することはできない。)。しかし、衣笠医師の見解を採用すればもちろんのこと、上畑医師の見解を採用しても、本件においては、公務と疾病との間の相当因果関係を肯認することはできないというべきである。

すなわち、一般に、高血圧性脳出血を発症させた有力な原因が公務遂行過程から生じた身体的、精神的ストレスであると認められる場合であっても、公務と疾病との間の相当因果関係が認められるためには、疾病の原因となった身体的、精神的ストレスが、当該公務の遂行過程で通常発生し得るといえるものでなければならないと解するのが相当である。換言すれば、そのストレスが、当該公務の遂行に随伴して発生する一般的蓋然性があり、通常考えられる因果関係の範囲内において生じた結果とみられるものであることが必要であり、当人の特殊な身体的又は精神的条件あるいは特異な行動などに基づき、通常考え得る因果関係の範囲から逸脱して発生したものである場合には、相当因果関係は否定されざるを得ないものというべきである。

これを本件についてみるに、前記三のような医学上の見解に照らして前記認定の経過を検討すると、原告の高血圧性脳出血の発症には、上畑医師の指摘するようなストレスが関係していると解する余地も存在し、右ストレスそのものの発生が公務の遂行に起因するとみることもできる。しかしながら、右ストレスの発生は原告の特殊な性格あるいは特異な行動などに基づき、通常考え得る因果関係の範囲から逸脱して発生したものといわざるを得ないから、右ストレスと公務との間に相当因果関係を認めることはできないというべきである。

これを詳述すると次のとおりである。

(一) まず、問題を公務の方からみると、上畑医師の述べる機序の中で本件疾病との関係が認められている公務は、生徒S方への家庭訪問の依頼と武田教諭からの問い合わせの電話だけである。

これらと情動ストレスとの関係を考えるに、生徒S方への家庭訪問の依頼の点については、それに従って家庭訪問をする途中で転倒事故に遭遇したというところまでは当該公務に随伴して惹起される一般的な可能性があるものということができるが、事故が起きればそれが血圧の急上昇を来して脳出血に至る情動ストレスを生ぜしめるという蓋然性は肯定できない。原告が家庭訪問の途上で転倒したことは、不運としかいいようがない出来事であるが、原告が、仮に転倒、受傷の原因が専ら家庭訪問の依頼にあるかのように思い詰め、しかも、事務的報告の必要からの家庭訪問は教育的にはまったく無意味なことであり、学年主任がこれを担任の自分に押し付けたと捉えて激怒したとすれば(授業料を徴収することも必要的事務としている学校の立場としてみると、生徒の家庭の複雑な事情をも知悉している担任に訪問してもらおうとしたこと自体には相応の理解し得る側面もある。)、極めて特殊な反応の仕方とみるほかはなく、その怒りを持続させるということになるともはや通常の因果関係から予測される結果ということはできない。

また、武田教諭から事務的な必要上の電話連絡があった件について考えるに、それは二月二八日すなわち原告に顕著な症状の表れた日の前日の朝の出来事である。単なる因果関係の問題としてみても、被告主張のように二月二九日朝発症したとすればほぼ一日前のことであり、また、上畑医師の見解によると発症後のことになる。したがって、前者の立場にたつとそれによる影響が翌日朝まで持ち越されたと考え得るかという問題となり、後者の立場にたつと、発症した脳出血を増悪させたかという問題となるのであるが、いずれについても、問題を肯定するに足りるだけの具体的証拠はない。のみならず、仮にこれらのいずれかが肯定され得たとしても、社会生活の上でみれば、その程度の出来事はまま見受けられることにすぎず、それを社会的儀礼を心得ない態度と受け止める程度ならばともかく、これに激怒するというに至ってはやはり特殊な反応とみざるを得ない。

ちなみに、原告のこのような易怒的な性向は、原告作成の陳述書からも窺うことができる。すなわち、甲第二七号証では、教育の実践についての原告の理念とともに、現実の教員の多くが聖職たるべき教職の理想像から遠いという批判が具体的事例を引いて展開され、また、甲第二八号証にも、教育に関する信念などとともに、右と同様の教師の実態に関する原告の批判的認識が述べられており、自分が不当だと考えたときは躊躇なく不当を是正する積極的行動に出るという妥協のない姿勢が縷々述べられている。これらの陳述書に記述されている原告の抱く教育の理念とこれを実践すべく取られた原告の行動と前記認定のような原告の平素の仕事振りをみると、なるほど、原告は、生徒に対する指導の面では、極めて粘り強く熱心でかつ精力的な教員であり、指導する生徒との関係では寛容で理解のある態度を保持し、《証拠省略》に表れているように生徒の側から信頼され、尊敬される教師であったことが認められる。しかしながら他面、いわゆる女生徒Kの家出問題に関して、若い女性の英語教師が成績に関して述べた言葉が家出の原因であると断言し、同教師が当該発言について責任をまったく感じていないとして憤り、同教師を激しく非難したという記述に端的に表われているように、自己の持つ教育の理想像に対する思い入れが強く、学校や同僚等との関係では、自己の考え方に合わないことについては妥協を許さず、寛容さを欠く批判ないし非難をし、それが怒りに変わるというような性向を有したことが窺われるのである。

(二) 上畑医師の指摘する他のストレス、すなわち、転倒事故後の、左肩の持続的な強い痛み、不十分な食物摂取、睡眠による身体的消耗という要因についてみても、まず、転倒事故による左肩の痛みについては、家人の勧めにもかかわらず、速やかに医師の診療を受けなかったのはほかならぬ原告自身なのであり、仮にそれが原告に血圧上昇をもたらすほど強度でかつ持続的なものであったとすれば、応急的にでも医療措置を受けるのが当然であり、むしろかえって、妻が救急車を呼ぼうとしても、やめさせてしまった原告自身の選択に原因を帰せしめられるほかはないものというべきである。また、殆ど食物を摂取しなかったという点についても、原告自身が家人の勧めにもかかわらず食欲がないとして自ら摂取しなかった結果である。食欲がなかったということは、他律的な要因であるという見方も可能ではあるが、そうであればなおさら医師による治療を受けるべき状態にあったことになる。睡眠が不十分な状態を続けていたとの点については、それが痛みと憤りのためだというのであるから、それぞれの要因についてと同様の問題があり、しかも、眠れないという状態が強度の持続的痛みと食欲不振に加わっていたのであれば、さらに、医師を受診すべきであったことになる。

結局、これらの身体的消耗等の要因は、原告自身の選択した対応の結果であるといわざるを得ない。

(三) 以上のとおり、上畑医師指摘のストレスが原告の血圧上昇に関係しているとしても、そのようなストレスは、問題となり得る公務の遂行過程から一般的に通常発生する性質のものであるとはいえない。

六  原告は、本件転倒事故の際、後頭部を打撲したことも共働原因になっていると主張する。いわんとする趣旨は明確でないが、後頭部打撲による受傷そのものを原因とする外傷性脳出血だったとの主張をする趣旨であるとしても、そもそも外傷性脳出血の可能性を推認するに足りるだけの証拠がないことは前記のとおりである。また、それが高血圧性脳出血の原因の一つになっていたという趣旨に解したとしても、打撲をもって高血圧性脳出血の原因と解するためには、打撲による身体的、精神的ストレスが血圧上昇の原因として介在したといえる場合でなければならず、結局は、打撲による痛み等前示の問題に帰着することになる。したがって、原告の右主張は採用できない。

七  以上のとおりであるから、本件疾病の発症と公務との間に相当因果関係を肯認することはできない。

(裁判長裁判官 相良朋紀 裁判官 松本光一郎 岡田健)

<以下省略>

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